母子家庭での生活

地元:鹿児島市東谷山

 僕は、1989年1月17日に生まれました。

今、35歳です。

名前の秀匡は「ひでまさ」と読みます。

母が、優秀な子に育つようにという思いでつけたみたいです。

両親と祖母と暮らしていました。


僕が1歳の頃に両親が離婚して、ここから母と祖母との3人暮らしが始まります。

中学生までは、片親であることに何とも思いませんでした。

でも高校の頃、鹿児島実業高校に入学したので、好きだったサッカーをするために

サッカー部に入ろうと思いました。

しかし、母から部費が払えないと言われたんです。

高校で私立に行ってしまったことも痛かったですが

そこで初めてお金が少ない家庭なんだと痛感しました。

建築に興味をもつ

大学受験をきっかけに将来を考える

 僕は昔から勉強が苦手で、机の椅子に座ることも出来ませんでした。

なので、将来についてはものすごく不安でした。

高校受験も失敗していたので、自分が勉強出来ないタイプだ

ということはよく分かっていました。

高校3年の夏まで将来何になりたいのか、大学はどこに行くのか。

まだ何も決めれませんでした。

自分は何が好きかなと考えた時に、自分の部屋の模様替えを

夢中になってやっていたことを思い出しました。

なので、インテリアコーディネーターになろうかなと軽く考えていました。

よく調べてみると、インテリアに詳しくなるためにも

建築士になることは大事だということが分かりました。

そこから建築士になるための大学探しをしました。


間取り考えるのが好きになる

京都建築大学校へ入学


 京都建築大学校を選んだ理由は

在学中に二級建築士取得をサポートしていたからです。

運よく、僕も大学3年時に、二級建築士の免許を取得することが出来ました。


在学中に、設計の授業を受けている中で

家の間取りを考える機会がとても多くありました。

周りの友達を見渡すと、間取り作成に困っている人がある程度いました。

その中でも、僕は間取りを考えることが楽しく

先生から褒められることがありました。

与えられた顧客の希望条件と建築基準法をバランスよく考えることが出来ました。

そこから間取り作成が得意となりました。


屋号「madori設計」は、間取りが得意という所から名付けました。

三洋ハウス㈱へ入社

2011年(平成23年)4月~2017年(平成29年)3月【6年】

 社会人としてスタートしたのは、三洋ハウス㈱でした。

地元では有名で、入社が決まった時は母も祖母も喜んでくれました。

建築関係の知識は、何でも学ぶ姿勢で取り組もうと思ったのを覚えています。


三洋ハウス㈱では、アフターサービスを6年間担当しました。

【業務内容】

引渡した施主宅への定期点検、メンテナンス対応、クレーム対応、リフォーム営業~積算~現場管理


ここで、建てた後の家がどのように劣化して、どういうメンテナンスが必要となるのか

知ることが出来ました。

また、住んでいる施主さんが思う、もっとこうすれば良かったという話も多く聞くことが出来ました。


この6年間は、ひたすら業務をこなすのが精一杯な日々でした。

津曲工業㈱へ転職

2017年(平成29年)4月~2017年(平成29年)9月【6ヶ月】


 新築住宅とリフォームの現場のことを知りたいという考えで転職しました。


【業務内容】

新築住宅の現場管理、リフォーム積算~現場管理


現場管理という役割でしたが

設計担当の方から、図面の書き方や表記の仕方を教えて頂く機会がありました。

図面の見やすさが、現場管理のしやすさにつながることを学びました。

それは、今でも僕の設計の軸となっています。


㈱相塲工務店へ転職

2017年(平成29年)10月~2020年(令和2年)4月【2年6ヶ月】


 設計を学びたいと考えるようになりました。

ちょうど三洋ハウス㈱で上司だった方に相談したら

誘われるかたちで㈱相塲工務店へ転職しました。


【業務内容】

新築住宅営業~設計~積算~現場管理、リフォーム営業~積算~現場管理、インスタ運営、経理


身近に一級建築士がいたこと、またその方が元々大工で現場管理も出来たこともあり

多く学ぶことがありました。

そこでも、現場監督や職人さんから見て、記載しててほしい図面を知ることが出来て

出来るだけ見やすく、簡潔に伝えることを学びました。

この工務店の現場の納め方として、雨漏れしないように工夫された納め方をしていたので

それが今でも僕の設計に活かすことが出来ています。

雨漏れと内部結露は絶対に起こさせてはいけない精神が身に付きました。

また、経理も経験したことで、経営の視点に触れることが出来ました。

独立の道もあると考え始めたのはこの頃からです。


耐震等級3の計算方法を学んだのもこの頃です。

当時、熊本地震があり、その震源地となった益城町では

耐震等級3の家は倒壊せず、かつそのまま住み続けられていることを知りました。

また、災害が受けやすい土地と受けづらい土地があることも知りました。

ここから、僕の設計士としての知識が深まっていき

今の僕の価値観が出来てきます。

内村建設㈱へ転職

2020年(令和2年)5月~2020年(令和2年)10月【6ヶ月】


 学んだ設計の知識を深めていきたいという考えで

別の会社での設計機会を頂きました。


【業務内容】

新築住宅設計


ここでは、設計のスピードの大事さを学びました。

常に、スピードを問われる毎日でした。

完璧を求めず、まず大まかな部分を作成して、こまめに相談しながら進める大事さを学びました。

㈱エコ・スペースへ転職

2020年(令和2年)12月~2023年(令和5年)5月【2年5ヶ月】


 家事と育児のことを考えて、自宅に近く、設計が出来る工務店へ転職しました。

このエコ・スペースが、私が独立するキーポイントとなりました。


【業務内容】

新築住宅設計~積算~現場管理、リフォーム営業~積算~現場管理


エコ・スペースの社長が、社員の考えを尊重する傾向が強い方だったため

僕は、いろんなことを学ぶ機会を頂くことが出来ました。

特に、パッシブハウスについては知る機会があり

日本住宅の断熱性能が世界で一番低いことを知りました。

また、暖かい家にするために、どう設計したらよいのか学ぶことが出来ました。


この頃、周りの設計士を見ていると

耐震等級2や3の計算方法を知らない方がいたり

暖かい家にする方法を知らない方が多くいることに気づきました。

住宅業界に10年いて、多くの住宅会社や工務店の家は

耐震等級1の家が多く、また耐震等級1すら現場ではクリア出来ていない

ケースがあることに気づきました。

僕は、地震大国の日本なのに耐震性能が低いこと

またヒートショックで亡くなる方が多いのは

断熱基準が低いことにある事実を知り落胆しました。


ちょうど年齢のこともあり、独立するなら体力があるうちがいいと思い

設計事務所を立上げ、自分の事業として

日本住宅の性能を上げていこうと思い立ちました。

独立へ

2023年(令和5年)6月~現在

日本の住宅性能の底上げを図る


 そして今、日本住宅の性能を底上げしようという活動をしています。

目標は、日本住宅の最低性能が

耐震等級3、断熱等級6

になることです。


そのために、今の私が出来ることとして

耐震等級3と断熱等級6以上で設計することなので

お客様にはその性能を標準仕様としています。